世界の分断を乗り越えるために必要なものとは。映画『判決、ふたつの希望』の描くもの

 世界中で分断が深刻化している。トランプ政権を抱えるアメリカ、欧州では難民受け入れに対する人々の意識は乖離しはじめている。寛容な世界に向かうどころか、民族的対立はますます根深くなっている。日本社会でも政治的意識、経済的格差、世代対立など、様々な場面で分断が進行している。

 8月31日より公開の映画『判決、ふたつの希望』は、そんな分断化する世界の急所を点いた作品だ。

 映画の舞台はレバノンの首都ベイルート。住宅街の違法建築の補修作業をしていたパレスチナ人の現場監督ヤーセルが、あるアパートのベランダから水漏れしているのを見つける。その家主は、キリスト教で右派政党支持者のトニーだった。二人はその場で口論となり、ヤーセルが悪態をついたことに腹を立てたトニーが建築会社に謝罪を要求するが、トニーの攻撃的な態度は事態を悪化させ、トニーもまたヤーセルに差別的な言葉を投げかけてしまう。

 ささいな口論から始まったこの争いは暴力沙汰となり法廷闘争に発展。レバノン右派支持者とパレスチナ人の争いであることから民族同士の対立も煽られ、国中を巻き込む大きな事件へと発展していく。

 なぜただの口論がそれほどの大騒動になりうるのか。そこにはレバノンの複雑な歴史も絡んでいる。映画は対立的な民族感情が生まれる歴史背景を抑えながら、レバノン固有の問題に着地せず、世界中で起こる分断の構図を見出す。

 そしてその分断を乗り越えるためには、人間にとって普遍的なものが重要であることを映画は示す。

 本作の監督、ジアド・ドゥエイリ氏の言葉も借りて解説する。

 

18の宗派が共存するレバノンの日常風景

 レバノンは18もの宗派が共存する国家だ。かつてはキリスト教が多数を占めていたが、近代の中東の紛争の歴史を経て、パレスチナ人などが難民として流入してきたことなどから、今では多くの宗教・宗派がモザイク状に存在している。

 そんなレバノンでは、日常生活においても宗派の違いを意識したコミュニケーションが求められるそうだ。

 アラブ映画研究家で、慶應義塾大学SFC研究所上席所員の佐野光子氏は、自らのレバノン滞在経験での日常生活をこう語る。

 タクシーに乗り込んだらまずはバックミラーとフロントガラスをチェックする。ミラーからぶら下がっているものが十字架のついたロザリオ(まさにトニーの車のミラーにもかけられていた)か、あるいはタスビーフ(ムスリムが使用する数珠)か。フロントガラスに貼ってあるステッカーはマリア像か、政治指導者の写真か、あるいはクルアーンの聖句か。

 カーラジオから流れているのはレバノンの歌姫フェイルーズか、あるいはナシードと呼ばれるイスラームの宗教歌か。これらの情報をもとに運転手のプロファイリングを行うことで安心して会話に入っていくことができるのだ。(映画のプレスシートより引用)

 レバノンでは日常生活において、このような宗教的地雷を踏まないよう注意深い観察眼が要求される。映画には、トニーがアクセントでヤーセルをパレスチナ人だと見抜くシーンがある。ドゥエイリ監督はレバノン人ならアクセントで人の属性を見分けることはたやすいことだと言う。

  

「アクセントの他にも宗教的なグッズ、例えば十字架ですがそういうものをすぐに見つけることができるのがレバノン人です。やはりそれはこの国では宗教が重要な意味を持つからです。レバノンを作るのも、滅ぼすのも宗教ですから」

 

 物語の発端となる諍いは、そういう環境で生まれたものだ。なぜ二人の男の口論が国を揺るがすほどの大事件に発展してしまうのか。上述のような、日常においても気をつけるささいな宗教的なコミュニケーションバランスを、このささいな事件がヒビを入れてしまい、普段抑圧されているわだかまりのような感情が噴出したのだ。

 

複雑な対立を乗り越える普遍の人間性

 

 二人の対立は、当人たちの思惑を超えた事態に発展する。弁護士たちの思惑も重なり、法廷闘争もどんどんヒートアップしていく。そこに問題を拡大解釈するメディアのフレームアップ機能も加わる。わかりやすい分断の構図は、メディアにとって格好の題材となる。数字がほしいだけの者にも、正義を掲げたい者にとっても。

 この対立に終わりはあるのか。映画はこの対立の克服には人と人との普遍的な付き合いこそが重要だと示唆する。この映画の優れた点は、レバノンの複雑な政治状況を浮き彫りにしたことではなく、その複雑さを乗り越えるものは実はシンプルなものだと描いているところだ。

 ドゥエイリ監督は映画作りにおいても大切なことは普遍性だと語る。

 

「重要なのは、どの文化にもある人間的な部分を描くことです。もちろん文化固有の具体性を掘り下げる作品にも素晴らしいものはありますが、私の映画はもっと普遍性に寄り添っています。この映画の舞台にベイルートを選んのだのは、私自身のベイルートでの体験をきっかけに生まれた作品だからです。もし東京で同じような体験をしたら東京を舞台に選んだでしょう」

 

 騒動が大きくなるのを尻目に、二人の当事者はある出来事をきっかけに互いの人間的な部分を見つめることになる。それがこの映画に描かれる希望だ。それはレバノン特有のものでも、キリスト教やイスラーム教特有のものでもまったくない、人間誰もが持つほんのちょっとの親切心だ。

 こうした大きな事件に直面した時、我々はしばしばその本質を見誤る。本質とは歴史的な対立か、宗派の違いか。この映画はそうではないと語る。

 

「この映画は、お互いが大きなコンテクストの中で個人が見えなくなってしまった二人が、互いのことを一人の人間なんだと認知した瞬間を描いているのです。友情というほど深いものですらないのです」

 

 世界を覆う分断を乗り越える希望は、愛ほど強い感情である必要はない。友情ですらなくてもいい。ただ、人が人であると見つめること、それだけだ。

 ものすごく複雑な背景をたどりながら、とてもシンプルな、それでいて圧倒的に力強い結論にたどり着く。まさに2018年に観る価値のある一本だ。

Source: ハフィントンポスト