レバノン「キリスト教徒」「ムスリム」の大論争  映画『判決、ふたつの希望』監督インタビュー–フォーサイト編集部

 かつて「中東のパリ」と評されていた地中海の街ベイルート。1943年にレバノンがフランスから独立すると、首都となったベイルートには美しい街並みや海岸を目当てに観光客が押し寄せ、リゾート地として栄えたという。

 だが、シリア、イスラエル、パレスチナに囲まれた小国が、彼らの争いに巻き込まれないはずがなかった。イスラエルを追われたPLO(パレスチナ解放機構)を受け入れたことで、レバノン国内にパレスチナ難民が流入。キリスト教とイスラーム教の宗派対立に辛うじて安定をもたらしていたバランスが崩れ、1975年に内戦が勃発した。シリア、イスラエル、ヨルダンのみならず欧米諸国も介入し、1990年にようやく終結した頃には、ベイルートは壊滅的な被害を受けていた。

 復興が進む今も、内戦の爪痕が色濃く残っている。難民キャンプで暮らすパレスチナ人は、国籍も市民権も与えられず、厳しい就労制限の下、隠れて働いたりしている。そして、そんな彼らを「災いの元」と見做し、苦々しく思っている多くのキリスト教徒がいる。形式上、内戦は終わったとはいえ、今も彼らの心の中では感情的なしこりが解消されないまま残り、怒りが燻り続けているのである。

 8月31日公開の映画『判決、ふたつの希望』は、まさにその燻った怒りに些細なきっかけで火がつき、あれよあれよという間に国家的問題として拡大してしまうという物語。ベイルートで暮らすキリスト教系政党の熱心な支持者とパレスチナ難民という、「水と油」の2人の男が主人公だ。彼らが起こしたちょっとした諍いが大論争へと発展していく様が、少しばかりの滑稽さを交えて描かれている。

 レバノン映画史上初めてアカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたこの話題作を手掛けたのは、ジアド・ドゥエイリ監督。1963年にレバノンのベイルートで生まれ、20歳の時にアメリカへ留学して映画の学位を取得。『パルプ・フィクション』でお馴染みクエンティン・タランティーノ監督のカメラアシスタントとして数々の作品に参加し、1998年から自身の監督作品を撮ってきた。

 公開に先立って来日した監督に、撮影の秘話やレバノンの実情を聞いた。

――本作のきっかけになったという個人的な経験について教えてください。

 数年前、私がベイルートのマンションで暮らしていた頃、好きで集めていたサボテンにベランダで水をやっていたら、下で道路工事の作業をしていた方に水がかかってしまい、少し口論になったのです。その時は私がすぐに謝りに行き、大ごとにならずに済んだのですが、もしあの時、状況が悪化して雪だるま式に膨れ上がっていたら、どうなっていたのだろうと、後になって思いまして。それが物語の最初のアイディアが生まれるきっかけになりました。

 この映画には、私がベイルートで「相手」を敵視して育った経験や正義の見方など、自分の中に30年来あったストーリーが反映されています。その扉が、些細なきっかけで開いたのだと思います。

「相手」というのは、キリスト教徒のこと。私が生まれた家庭は、スンニ派のムスリムでした。私自身は全く信仰心がなく、コーランも開いたことがありませんが、たまたま自分の家庭や部族がムスリムだっただけで、「キリスト教徒は敵」という見方が植え付けられてしまいます。特に私は内戦が起きた1970年代に子供時代を過ごしたので、私たちムスリムにとっての敵はキリスト教徒だと、自動的に思っていました。

 また本作の共同脚本家は私の元妻なのですが、彼女の家庭は私の逆で、キリスト教徒側。ムスリムを敵視している家庭で育ちました。だから私たちが映画の中で描いたことは、2人が本当によく知っていること、2人がその中を生きてきたことなのです。

 ただ、この映画は私がこれまで手掛けてきた他の脚本と同じように、とてもシンプルです。今回の主人公は、自分が不当な目に遭ったと感じていて、それを正そうとするのですが、状況が雪だるま式に、自分ではコントロールできないところまで膨れ上がっていく。そういうシンプルなストーリーです。

 社会的なメッセージみたいなものが全くないとは言いませんが、そういうものを意識的に打ち出したくてこの映画をつくったわけではありません。正義とは何か、贖罪とは何か、そういったものは僕には哲学的すぎます。

 もちろん、少年時代に経験した内戦は、私にもの凄い影響とインパクトを与えました。その経験が私の意識下にあるから、作品に自然と滲み出てくるのかもしれません。

 ですが、脚本を執筆する時は、そういうものを全部カットし、キャラクターのことだけを考えて書きます。作品中のクスッと笑うような瞬間も、私の見方を表しているわけではなく、単にキャラクターを有機的に書いていった中で出て来たシーンに過ぎません。

――撮影で苦労したことは?

 彼(笑)。主人公の1人、パレスチナ難民の「ヤーセル」を演じたカメル・エル=バシャさんですね。この役にはどうしてもパレスチナ人の俳優を使いたくて、彼と会わないまま、スカイプでやり取りしただけでキャスティングしてしまったのです。そうしたら、ほぼ舞台しか経験がなく、映画が初めてと言ってもいいくらいだった。舞台は映像作品よりも演技が大きくなってしまい、声のトーンも違う。映像作品の場合は、カメラのアングルや照明の位置を考えながら、動かないといけません。そういうことが分かっていなかったわけです。

 それでも私たちは、苦労しながら撮影を進めていきましたが、カメルさんはいちいち15テイクくらいかかってしまう。それに対し、もう1人の主人公、キリスト教系政党の支持者「トニー」を演じたレバノン人俳優のアデル・カラムさんは、1~2テイクで済むのです。

 撮影を終了した時は、「カメルさんのせいで、この作品がダメなものになった気がする」と、私は泣きながらプロデューサーに電話しました。作品編集の方にも連絡して、「最後までカメルさんは、映画の演技がどういうものか分からないまま終わってしまった。もう駄目だ」と、泣きついたのです。

 ところがその6カ月後、ベネチア国際映画祭で最優秀男優賞に輝いたのが彼だったのです。本当に驚きました(笑)。

 確かに撮影が終わって編集をしていた時に改めて見直してみたら、わりといい演技をしているのかもしれないと思ったのです。撮影期間中は感情的になりすぎていたなと。ただ撮影が終わった直後は本当に落ち込んでしまって、彼のキャスティングの失敗で作品がオジャンになったとまで思っていました。

 私としては、今までで最もパーソナルな作品ですし、持っているものすべてを注いでつくったという気持ちがあったので、うまくいって本当によかったと思っています。

 それに1番キツかったことは、実は映画をつくった後に待っていたのです。

――どんなことだったのでしょう?

 国家や政党が映画の公開に圧力をかけてきたのです。

 話がレバノン政治の細かいところに入ってしまうと、あまりにも複雑なので、簡単にしか触れませんが、この作品の途中にパレスチナ人が加害者だった虐殺事件が出てきます。それがパレスチナを支持する人たちに快く思われなかったわけです。

 パレスチナというのは、世界中のシンパシーを被害者として集めてきた人々であり国であります。でも、そんな彼らもまた虐殺の加害者なのだという非常にデリケートな問題を描いたため、彼らが非常にナーバスになってしまった。

 レバノンの場合、国内で映画を上映するには政府の検閲を通って許可を貰わねばなりませんが、この映画の公開に反対する人たちがたくさん集まり、政府に許可を出さないよう働きかけを行ったのです。幸い、許可がおり、ヒットもしたのですが、公開まで6カ月間も待たされました。

――監督は19歳で渡米したとのことですが、その理由は?

 1983年、高校を卒業して大学へ進学するタイミングで、アメリカへ渡りました。映画学校がレバノン国内になく、映画を勉強するためだったのですが、この頃のレバノンがカオスとも言えるような非常に悪い状況にあったことも確かです。1975年に始まり、1990年まで続いた内戦の真っただ中でした。

 イスラエルが侵攻してレバノンを占領したり、親イスラエルのハジール・ジュマイエル次期大統領が暗殺されたり、ベイルートに派遣されていたアメリカ海兵隊とフランス軍の兵舎が爆破され、数百名の死者が出たりということが次々に起きた時期ですから、アメリカへ行くのにちょうどいいタイミングだったのです。

 結局、15年間戻りませんでした。弟も1986年にアメリカへ来たものの、両親はレバノンに残ったので、その間はずっと離れ離れ。父は農業関係のビジネスマンで、母は弁護士をしています。

 実は2人とも内戦中に政党に参加し、攻撃対象にならないモスクの地下で、秘密のラジオ局を運営していたのです。モスクに来たふりをして中に入り、地下3階にある小さな部屋へ行く。そこにはアンプとマイクがあって、スピーカーがモスクの中に響くようになっている。両親が参加していた政党が武闘派だったので、自ずと「敵」という存在ができた。それが私が自動的に敵視していたキリスト教徒だったわけです。

 この作品は、私が経験してきたことの延長線上にあります。親が武闘派の政党に参加して戦っていたし、私自身、波乱の時期を過ごしている。その経験は、アメリカに15年渡っても消えるものではありません。自分というハードディスクに残り、世界の見方を形づくるものですからね。

 ともあれ、ご覧になってくださる方々には、楽しんでいただきたいのと、全然難しくないからね! ということをお伝えしたいです。

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(2018年8月31日フォーサイトより転載)
Source: ハフィントンポスト