セルフプロデュースで「孤高の画家」に? オディロン・ルドンの努力と画業を捉えなおす

「ルドン ひらかれた夢」展

19世紀末から20世紀初頭にかけてフランスで活躍した幻想画家オディロン・ルドン(1840―1916)をご存じだろうか。目玉が浮いているような奇妙な版画、球体としてふよふよ漂う人の頭が一つの花のように集まったもの、そして怪奇小説の挿絵ーー。

内省を通して精神世界や幻想を描きだす「孤高な画家」として知られる彼だが、近年の研究で違った側面があることが分かった。ルドンとはどんな人間だったのか、彼の素顔に迫る展覧会がポーラ美術館で開催されている

「ルドン ひらかれた夢」展で版画に見入る来館者たち=ポーラ美術館

孤高の画家?さみしい幼少期

自伝「ルドン 私自身に」などによると、ルドンは1840年、フランス・ボルドーに生まれる。だが、生後すぐに親元を離れ、近くのペイルルバードという田舎町で育つことになった。

彼の言葉を辿れば、親元から離された理由の一つに、兄に対する母親の偏愛が挙げられている。母に捨てられたのではないかという思いを胸に、現実から目を逸らして「夢の世界」で生きるようになったという。

ブドウ畑の点在するペイルルバードは、荒涼とした土地。彼はこの田舎町の古い屋敷に預けられ、11歳までこの地で植物や空を眺めて過ごしたという。自伝の中でのルドンは、こうして家族から離れて暮らした孤独な少年時代が、幻想の世界を描きだすベースになっていると書いている。

「天から授かったものに従うことも、自然の命ずることです。私の授かったものは、夢にふけることでした。私は想像の跳梁に苦しめられ、それが鉛筆の下に描き出すものに驚かされました。けれどもはじめ驚かされたものを、逆に私の学んだ、また私の感じる芸術の生理に従わせて、見る人の眼に突然魅力あるものとし、思想の極限にある、言葉ではいい得ないものをそっくり呼び起こすように持っていったのです」

受験失敗。父の期待にも応えられず、遅咲きのデビュー

15歳で地元の風景画家スタニスラス・ゴラン(1824-1874)と出会い、素描の基本を教わったルドン。

数年後にパリに移り住み、父の期待に応えようと、多くの著名な建築家を輩出してきた国立高等美術学校、エコール・デ・ボザールの建築科を受験する。

だが、受験は失敗。父の期待にも応えられず、母に愛された兄は音楽家に、そのうえ弟は建築家になって名をはせた。

兄弟のなかでは、目立った才能を発揮することができなかったように見えるルドンだが、39歳のときにやっとデビューを果たすことになる。遅咲きだが、この時代の文学者や批評家からも高く評価され、陽の目を見ることとなった。

不気味だけどコミカルで、悲しげだったり笑顔だったりと、どこか愛らしいルドンの描く妖怪たち

この内省的な世界を描いた作品は、どのような作家や作品から影響を受けたかは自伝にはほとんど書かれていない。すべては自らの内面から発露したものである、として、独創性、孤高性を強調している。

ただ、19世紀のフランスには、キュートな妖怪が描かれた葛飾北斎(1760-1849)の「北斎漫画」が伝わっており、そうした異文化との交流や、植物学者アルマン・クラヴォー(1828-1890)から得た知見が、ルドンの作品に影響を与えていたとみられている。

並みいるアート界のライバルたち

奇しくも、ルドンは同じ年に生まれたモネ(1840-1926)や、1歳違いのルノワール(1841-1919)など、印象派の名立たる画家に囲まれていた。

「睡蓮」などで有名な同年代のモネは、印象派画家としてルドンのデビュー前から有名になっていた

だが、そうした「目に見える世界」を描きだす彼らとは一線を画し、ルドンは奔放で独創的な世界観を発表していった。一大ブームだった印象派とは異なる、自身の道を突き進む。こうした態度や自伝などから、ルドンは心の中に潜む「内なる世界」に向き合い、目に見えない精神世界をモノクロに描きだす「孤高の画家」として捉えられてきた。

その後、50歳を前にして、モノクロの世界から色彩を取り入れた作品を発表するようになる。この頃、芸術に目覚めた「原点」というペイルルバードの土地と館が売りに出される。ルドン自身の説明によれば、この土地が一家の手を離れたことにより、呪いから解き放たれたように色を取り戻したのだという。

1890年頃から油彩やパステルを用いて幻想的な花などをあざやかな色彩で描いたルドン。幻想的で浮き上がるような花瓶の横には、花びらにも見える蝶が描かれている。

死後に公開、手紙や日記から見えてきた”実情”

ここまで見ると、周囲の評価や言葉に惑わされず、何者にも影響を受けずに独自の「夢の世界」を追求したアクの強い画家に見えてくる。

だが、これはほとんどが、彼の自伝や、それをもとに語られてきた人物像からくるものだ。

そんな彼の生前の手紙や手記が、1990年代から次々と公開され、新たな事実が浮かび上がってきた。

死後に手紙を公開されるのはちょっと恥ずかしい気もするが、ルドンが当時の有名な美術批評家に宛てられた手紙もたくさん見つかった。自分の作品について書かれた批評記事のスクラップもたくさん出てきてしまった。

そこでわかったことそれは、実はルドンが、人々に認められるための様々な努力をしていた、ということだった。

孤独に描いていたルドンの絵を、当時の美術評論家がどこぞでいきなり見出しくれて、注目を浴びた、というサクセスストーリーは、彼の描きだした「幻想」の一つだったのかもしれない。

ルドン、猛烈にアピール

作品を描くと、まず影響力の強い詩人や美術批評家に送ってみる。 すると、だんだんと美術雑誌などで取り上げられるようになり、人気作家の地位を得るようになった。

ただ、当時は油彩画の全盛期。彼の作品である版画はマイナーな分野だった。どうにか芸術家としての知名度を上げたいルドン。また美術批評家や、詩人に頼み込み、フランス政府が自分の作品を買ってくれるよう画策する。

だが、そんな簡単に物事は進まず、何度も政府に断られながらも根回しを続け、1904年、64歳の時に、「眼を閉じて」が買い上げられ、国民的芸術家として認められた。

彼は、「どうみられるか」もとてつもなく気にしていた。同世代の印象派で、すでに有名画家だったモネを強く意識し、対照的ともいえる表現を探求。そして自分について書かれた批評は、きっちり切り取ってスクラップし、そこに書かれた自分の名前などに線を引いて記録するほどだった。

現代で言えば、誰にも影響を受けない孤高の自分を演出しながら、実はエゴサーチを繰り返し、自分の著作物について「紹介してよ」と評論家や有名人にメンションやメッセージを飛ばすーー。ライバルの動向に気をもみながら、そのうえ人一倍、人の目を気にしている、なんとも人間くさい、可愛らしい一面が分かってきたのだ。

情熱的、だけど内気

認めてもらうための様々な広報活動に力を入れていたとみられるルドンだが、好きな人に対しては内気な一面もあった。

植物学者クラヴォーから教わった「黒猫」などの怪奇小説で知られる小説家エドガー・アラン・ポー(1809-1849)に陶酔し、小説のストーリーをもとに勝手に版画集を作ってしまうほど。

またロマン主義の画家、ウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)に憧れており、「ドラクロワの燃え上がる熱情に慄えるほど感動した」というルドン。ドラクロワを夜会で見かけたが、どうしても声をかけることができず、つい彼のあとを家までつけてしまった、というエピソードが残っている。

死後も愛され続けるルドン

ちょっと気味の悪い幻想的な世界を描きだした芸術家として、そして一人の人間として、死後100年以上を経た今も、愛され続けているルドン。

「惡の華」では、ルドンの有名な目玉の絵が象徴的に描かれている

現代美術の版画家・美術家として知られる柄澤齊さんや、近年では、漫画家の押見修造さんが「惡の華」という作品の中で、ルドンの作品をモチーフにしたことでも知られている。

今回のルドン展では、そうした現代につながるルドンの影響についても紹介されている。

ルドン ひらかれた夢 幻想の世紀末から現代へ

会場:ポーラ美術館(神奈川県足柄下郡箱根町仙石原小塚山1285)

会期:2018年12月2日まで ※9月27日(木)は展示替えのため休室(常設展示のみ開室)

前期展示期間:7月22日−9月26日/後期展示期間:9月28日−12月2日

開館時間:午前9時〜午後5時(最終入館は午後4時30分)

入館料:大人1,800円 大学・高校生1,300円 小・中学生700円

Source: ハフィントンポスト