「同性愛を公表するために、ブログを書いたのではない」 ロバート キャンベルさんが伝えたいこと

ロバート キャンベルさん

自民党の杉田水脈衆院議員、谷川とむ衆院議員によるLGBTをめぐる寄稿や発言を、国文学研究資料館長のロバート・キャンベルさん(60)が、自身のブログで批判した。

キャンベルさんは、自らにも同性パートナーがいることを明らかにした上で、杉田氏らの論考の背景にある社会のありようをこう指摘した。

「LGBTが『周囲にいない』と答える日本人が多いのは、存在しない、ということではなく、安心して『いるよ』と言えない社会の仕組みに原因があります。(中略)ふつうに、『ここにいる』ことが言える社会になってほしいです」

このメッセージは大きな反響を呼び、Facebookで7500回以上「いいね」されている。あれから約1週間。いま思うことを、キャンベルさんに聞いた。

「公表」しても、普段の生活に何も変わりはなかった

8月12日にブログを公開して、同性愛を「公表」したことが新聞などで取り上げられてから、15日に20年近く住んでいる家の近所を散策しました。

朝のゴミ出しをした時には、近所に住んでいるおじさんに会いました。その方は新聞を熱心に読む人なので、おそらく私のニュースも知っていたと思います。落ち葉拾いをしていたので、防鳥ネットを開けてゴミ出しを手伝ったけれど、いつもと変わらない日常のあいさつをしてくれました。特別なことは何も言わなかった。

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少しまわりの目を意識してしまったり、握手を求められたりはしましたが、自分の普段の生活に何も変わりはなかった。

特別なことは、何も起きませんでした。

ああ、こういうことなんだなぁ、と思いました。

性的指向や性自認というのは、「あの人はボーダー模様が好き」といったような、人となりを表す一つの要素というか、他者との繋がりあいにおいて「気づく」ことの一つに過ぎないのだな、と感じたんです。

「公表」によって、少し空気が軽くなったというか、フィルターが1枚剥がれた感覚はあります。私の本質や神経が「裸」になったようにまわりの人が感じ取ってくれて、人との接点の可能性が広がり、人と交流する上での「リーチ」が少しだけひらけた予感がします。

同性愛を公表することが、ブログを書く目的ではなかった

私があのブログを書いたのは、同性愛を公表することが目的ではありませんでした。

政治家批判というものでもありません。谷川とむ氏や杉田水脈氏が言っていることは間違っている。この機会を踊り場にして、話し合おうよ、と言いたかった。

最初に杉田氏の寄稿文を読んだ時は、真正面から反論しなければ、とは思いませんでした。国の政策の形成に関わる人が、誤った知識に基づきあのようなことを書くのはよくない。「正されるべき」とは考えましたが、正すのが私だ、とはあまり想定していなかった。

その後、同性婚などは「趣味みたいなもの」という谷川氏の誤った言説がメディアに取り上げられると、ネットという電子空間の中で乱反射していくようになりました。自民党はどう対応するか、など政治の話にも及びましたが、そこはさて置き、電子空間で繰り広げられている議論の中には、「(谷川氏や杉田氏の主張の)何が悪いのか」とする意見も目につきました。

杉田氏の論考が、環境要因でセクシュアリティが変わるとか、誤った理解や偏見を助長することに繋がっていた。そのことに危機感を持つようになりました。そこで、杉田氏の論考を改めて読み直したのです。

杉田水脈氏寄稿文に見た、2つの問題点

杉田氏の論考に関しては、「LGBTの人は子どもを産まない、つまり『生産性』がない」という部分が、主に問題視されているようです。

ですが、私は「日本はLGBTにとってそれほど暮らしにくい国ではなく、親に理解されないのが一番の悩みである」という部分に非常に違和感を感じています。

私は、性的指向というのは、その人が持っている「資質」だと考えています。にも関わらず、LGBTの人の中には、親からその基本的な資質をずっと否定されながら育ってきた人もいる。その環境で「親の期待に応えなければ」と思いながら生きてきた子どもたちに対して、「親さえ納得すれば大丈夫じゃないか」と言い放つのはとても残酷です。

なぜなら、その親が「納得」しないのは個の問題ではなく、その親が育ち生きてきた環境や社会の仕組みが影響しているからです。セクシュアリティや性自認が個人の幸せを決定づけるものである、という価値観が、育ってきた環境によってすり込まれている。それは個人で解決できるものではありません。

母親から「普通の子に産んであげられなくてごめんね」と何度も言われた、という話を知人から聞いたことがあります。杉田氏の論考は、そのようなことを後先見ずに誰にでも「言わせる」状況を作ってしまう、残酷なものだと思います。

月刊誌「新潮45」2018年8月号での杉田水脈氏の寄稿「『LGBT』支援の度が過ぎる」より

また、 LGBの人を「不幸である」と断言している点も問題です。

杉田氏は女子校出身で、学校では先輩や後輩との「疑似恋愛」はあったが、卒業したら「普通に異性と恋愛して結婚していった」と書いています。そして、性の多様性やLGBT関連の報道が、「普通に恋愛して結婚できる人まで、『これ(同性愛)でいいんだ』と、不幸な人を増やすことにつながりかねません」と結んでいる。

「不幸である」と政治家が言ってしまうのは、とても残念なことだと思います。

杉田氏の寄稿文を読み、政治とは何か、ということを考えました。19世紀のイギリスで生まれた思想に、政治とは「最多数の最大幸福」をもたらすものである、という考えがあります。この思想に立って多くの政策が作られ、日本の政治も影響を受けています。

杉田氏は、LGBのようなある資質を持った人を「不幸である」と決めつけ、その人たちの存在が報道されることによって「不幸な人を増やす」と主張している。より多くの人の幸福を最大化することが政治の目的だとすると、杉田氏の主張は、LGBの人たちが最多数の幸福の最大化を阻んでいる、と意味しているとも受け取れる。これは、読んでいてぞっとする考えです。

政治家としての杉田氏の主張は別として、このような考えが世の中に出てしまうことを放置してはいけない、と思いました。私は、日本文学という日本の言語文化に関わり、今の世の中や文化の様々なあり方について、言論でもって伝えていくことを自分のアイデンティティーの一つとしているので、これには異を唱えるべきだと思ったんです。

性的指向や性自認は、その人のポテンシャル

ブログを書いたあと、マスコミは「キャンベル氏が同性愛を公表」と大きく取り上げました。

言論でのカミングアウトは、政治家の誤った主張を正すための前提として、自分の立場を明らかにする必要があり、そのために行ったことです。それが見出しになるとは思わなかったので、違和感はありました。

今も何となくムズムズするところはあります。ただ、当事者の方を含めて、女性や障がいを持った人など、たくさんの人からメッセージをもらいました。可視化されていない問題をどう人に伝えるか、問題解決を阻んでいる「遮断機」がどこにあるのか、それを考えることは、セクシュアリティの問題と密接に繋がっていると学ばされました。

公表したことに「勇気がある」とたくさんの方が言ってくれます。これは大変ありがたいことですが、私には幸福なことに理解をしてくれる家族がいて、社会的地位もあって、安定した収入もある。そういう意味では、カミングアウトをしても失うものは何もないんです。

勇気が必要なのは、10代、20代の若い世代です。これから就職を控えており、親から「いずれは結婚して孫の顔を見せる」ことを求められていて、苦しんでいる人たちです。

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ブログでは、性的指向や性自認は「生を貫く芯のようなもの」と表現しました。私は、性的指向や性自認とは、その人の「ポテンシャル」だと思っています。そして、その人たちのポテンシャルは、文化や経済、当事者ではない人の人生を豊かにしてくれます。

ですが、今までは、セクシュアリティの問題は法律的にも社会的にも蓋をされてきました。そうした問題は「影」にあるもので、知られては生きていけないという考えが、僕らの親世代にはあった。

そういうこともあって、日本はLGBTの人たちを積極的に排除しませんし、攻撃もしません。しかし、排除しない代わりに、この問題をあまり深掘りしようとしない。目の前に見せてほしくない存在として扱い、言挙げをしない一面がありました。

結局、その人たちのポテンシャルを開花させない抑止力が日本社会の中に働いてしまっているんです。

私の発言はどうってことない。それを気づかせる起爆剤になればいい

今は、インターネットが発達したことで他者と繋がりやすくなり、他人の経験を簡単に「追体験」できるようになりました。特に若い人の間では、その追体験への興味やリテラシーが深まっている。

それなのに、「セクシュアリティ」の領域だけが動かずにとどまっているというか、たとえて言えば、池の中が「泥(なず)んでいる」状態が続いている感じがしています。

そんな状況で出てきた杉田氏の言論は心ないものではありますが、彼女の発言を発端として繰り広げられている議論は、それまで動かずに堆積していた池の底の腐葉土が攪拌(かくはん)され、大きなエネルギーを放出しているような状態とも言えます。

でも、そうした不透明な状態の中でも、もしかしたらここに蓮の花が咲くかもしれないというような、希望も感じています。

私の「公表」は、世間的にみると「意外性」がありました。ただ、そこでみんなが知っているキャンベルという人物と、これまで私が言ってきたことをつき合わせてみたとしても、「なんだ、どうってことないんだよね」となるんです。実際にそんな反応がありましたし、先ほど話したように、私を取り巻く日常は変わらなかった。

私の発言が、「どうってことないんだ」ということを気づかせる一つの起爆剤になればいい、と思っています。それによって、滞っている部分が流れるようになればいいかな、と。今はその流れができるチャンスが広がっていると思いますし、その意味では、私は杉田氏の発言を機に起きた現象をポジティブに受け止めています。

一方で、ではなぜみんなカミングアウトしないのか、とは絶対に言うべきではありません。それはアウティング(本人のセクシュアリティが第三者に暴露されること)につながってしまう。カミングアウトをせず、このままでいいという人もいます。

大事なことは、安全にカミングアウトできる人が、自らの意思で望んでカミングアウトした時に、その人が損をして、何かを失ってしまうようなことはなかった、という体験を可視化していくことです。

そうすれば、石が転がるように、ぽつんぽつんと自分のまわりにゲイの人、バイの人、トランスジェンダーの人が当たり前にいるようになるんだと思います。

「ここにいるよ」と言える社会になるために、必要なこと

あの人はきちんと家の前の落ち葉をはいて、いつも綺麗にしている。ゴミ出しもしっかりやってくれる。それと同時に、ゲイである。そうやって、「見える部分」と同じような気圧で、並列に人の性的指向や性自認が認識されるようになってほしいと思います。

そのためには、制度の調整も大事です。

同性愛者やトランスジェンダーの人たちが「ここにいる」と言えなくしてしまっている社会や制度の仕組みはなにか、どこに障壁があるのか、それぞれの側面から考えることが必要だと思います。理解を阻んでいる理由を一つひとつ棚卸し、エビデンスやデータを含め、その課題を考えるための材料を整えることが必要ではないでしょうか。

そして、その壁を取り除くことで、誰がどんな損失を被るのか。社会の仕組みの問題点を明らかにして、調整していくこと。同時に、職場や学校などの日常の中に、多様な価値観と「接続」する機会が増えるよう工夫することが必要です。

そうした取り組みを通じ、日常に当たり前にいるよね、と一人ひとりが感じ取れるようになったら、空気が変わっていくのではないか、と思っています。

(撮影:Jun Tsuboike / 坪池順)


Source: ハフィントンポスト