沖縄戦の遺品を調べ続けて見えてきた、記憶継承のあり方

私は沖縄戦後約60年間、沖縄の壕に残された遺骨・遺品を収容してきた国吉勇氏の下で、氏の収容された遺品を調査し、全国で展示する活動をしている。そんな私の活動の原点にあるのは2015年12月、恩師の倉石寛先生からの紹介を通じ、国吉氏を初めて訪ねたときの記憶だ。

先生は私に地上戦に表出した内地のマイノリティ蔑視や、それが生み出した社会の矛盾など、内地で暮らしているのみでは実感しない問題を、現場での活動を通して学ぶことを期待していたようである。火炎放射で融かされた飯盒など想像を絶する形状を呈した遺品や、畳やタンスなどの民間人の壕での生活の様子を暗示する遺品と対面した瞬間の記憶は今でもフラッシュバックする(詳細は昨年書いた記事をご参照ください)。そのときに感じた沖縄戦への無知に対する衝撃、そしてこの無知の自覚を内地で共有せねばならないという責任感に突き動かされ、私は現在の活動を始めた。

本格的な活動開始から一年、内地人の立場から、改めて沖縄戦の歴史を学び継承する必要性や、そのための方途について考察したい。

  • 遺品が与えた衝撃

十数万点の遺品が敷き詰められた国吉氏の戦争資料館を初めて訪れたとき、私は遺品から二種類の衝撃を受けた。一つは遺品が語る地上戦の非人道性に対する衝撃、人間がこれほどの醜悪を成しうるということ自体に対する戦慄だ。

しかし、同時に私はこれと全く異なる衝撃を受けた。それは、目の前にある遺品を生み出した沖縄戦の実相について何も知らなかったことに対する衝撃だ。国吉氏は「60年間収容を続けてきたが、遺品は未だ毎日出土する」と言った。なぜそれほど多くの遺品が地中に残されることになったかに関し、自分は何一つ知らない。この無知に対する衝撃は、地上戦そのものへの恐怖よりも深く心に刻み込まれ、以降私は沖縄戦を他人事とは思えなくなった。

当初は無知の原因を教育の不足やメディアからの注目度の低さなど外的要因に求めた。しかし、教科書にも多少は沖縄戦に関する記述は含まれており、沖縄戦を学ぶ機会・手段が皆無であったわけではない。沖縄戦の歴史が共有されてしかるべきだという認識と沖縄戦への無知の自覚を持っていれば、私は教科書を飛び越え、自分から沖縄戦のことを学ぶ努力をしたはずだ。一方、国吉氏に出会う前の私は、沖縄慰霊の日でも家庭や学校で沖縄戦に関する議論を交わしたことはなかった。原爆投下日や終戦記念日には戦争の悲惨さについて家族や友人と語り合うことも多かったが、そのような記念日と沖縄慰霊の日との扱いの差に疑問を持つことすらなかった。自分は沖縄戦を学ばれるべき歴史だと考えてこなかったからこそ、沖縄戦に対する無知を自覚せず放置してしまったのではないか。そう自問するうちに、「無知の知」は「無知の恥」へと変質していった。

沖縄戦への対峙の難しさは、内地の加害者性に向き合うことが求められることにある。「内地から来た日本兵によって、壕や食糧を簒奪された」という証言は数多い。日本兵により着の身着のままで地上戦の中を潰走させられたからこそ、民間人の犠牲がいたずらに増えたのだ。結果、元来壕が住民の生活の場であったにも関わらず、出土する遺品の大多数は武器や軍人の携行品など日本軍関連のものだ。国吉氏は「もっと沖縄の人の遺品を遺族に返還できれば良いのに」としばしば嘆くが、実際民間人の遺品が出土することは極めてまれで、これまで返還できた遺品は内地出身の軍人のものが中心的だという。また、氏が繰り返す「民衆は壕から追い出されたから遺骨も遺品も見つけられないことが多い」との言葉からは、壕追い出しという日本軍の暴力が、住民から先祖を弔う方途を奪うことにより、沖縄住民を現代まで苛み続ける苦悶と遣る瀬無さを残したことが窺われる。氏以外の戦争体験者の語りの中にも、「日本兵から『皇軍は沖縄を守るために来たのだから学校や住宅を明け渡せ』と言われた」などという、沖縄を使役・搾取する内地の傲慢さを反省させられるエピソードが数多い。沖縄で活動する今でさえ、「これ以上沖縄戦の話を聞くのは精神的に耐えられない」と思ってしまうことが多々ある。

被害者性のみを強調できる原爆や空襲に対し、沖縄戦は民間人に対する抑圧者としての内地の加害者性を自認することを迫る。沖縄戦を学ぶ中で私は「自分を含めた内地人は殺人者の末裔なのだ」と気づかされた。その事実に対峙する痛みを予感し、防衛機制として自分は沖縄戦への無知を選び取ってきたのではないか。そう言われても返す言葉がない。

  • なぜ沖縄戦を学ぶのか

その防衛機制は沖縄戦への無知を正当化しない。国吉氏を含めた沖縄戦体験者や現地の政治家・研究者の方々との出会いを通し、その思いは強くなった。

彼らは皆、沖縄戦のことを学んで欲しいと繰り返す。それは、ただ自分たちが過去に受けた苦しみを知って欲しいというだけではない。「沖縄戦の問題は戦時中だけの問題ではない。4世紀に渡って沖縄が内地の犠牲にされてきた、という長い歴史を持つ問題なのだ」というのである。彼らの話で最も印象的なのは、全員が1609年の薩摩による琉球侵攻、1879年の琉球処分、方言札の強制などの同化政策、沖縄戦、そして基地問題を、エスニックマイノリティとしての沖縄人に対する内地の差別・暴力という一連の現象として捉えていたことだ。沖縄の人々にとって、沖縄戦は単なる過去の惨劇ではない。むしろ自らの利益のために沖縄に犠牲を強い、その犠牲に対する無関心を貫いてきた内地のエゴイズムの極致なのである。

自分たちに都合が悪いからと言って沖縄戦の歴史を記憶されるべきものだとみなさないことは、沖縄を差別し武力で抑圧した過去の内地人と同様の罪深さを持つのではないか。そんな罪障意識が、私が沖縄を学び続ける原動力である。

  • 遺品による沖縄戦の記憶継承

沖縄戦の記憶を継承することで、私たち内地人は自らのマイノリティ蔑視を覚知することが出来る。そのことは沖縄・内地間の抑圧の根源を見つめ、それをどのように解決できるか思い巡らす契機になるはずだ。

元来、沖縄戦の記憶継承の主流は戦争体験者による語りにあった。しかし、これには沖縄と内地との隔絶、そして戦争体験者の減少という2つの課題が立ちはだかる。体験者の高齢化と共に語り部は減少しており、加えて語りの対象となるのは主として沖縄を訪問する内地人に限られるため、戦争体験談のみによる記憶継承には限界がある。

私は沖縄で収容された戦争遺品(民間人が壕に持ち込んだタンス・畳・歯ブラシなどの生活物資や、手榴弾・地雷の残骸などの軍用品、さらに注射器や薬瓶などの医療器具など)の活用が、これらの課題を同時に解決する方途になると考えている。戦争遺品は地上戦の爪痕、そして戦争の中で生活を守ろうとした民間人の営みを永遠に示し続ける。例えばタンスなどの家財道具の部品は壕を「第二の家」にしようとした住民の息遣いを、火炎放射により変形した品々は壕に潜む住民を襲った火炎地獄の有様を、そして民間人の持ち物を遙かに凌駕する物量で出土する軍用品は住民から「第二の家」を奪った日本軍の非道さを思い起こさせる。

<写真1>タンスの飾り

<写真2>火炎放射で石と融着した飯盒。原形を留めていない。

国吉氏は壕から収容した品物を「埋蔵品」などではなく「遺品」と呼ぶことに象徴されているように、各々の品物は固有の持ち主の存在と、彼らの生活が簒奪された実相を訴えかける。平和ぼけした私にとって、遺品に刻み込まれた火炎放射や壕追い出しの苦悶は、理解の範疇を超えている。私も国吉氏から「今の若い子には判らないだろう?」と幾度となく言われた。しかし、壕から出土した品物が生身の人間の「遺品」であると考えた時、同じ人間としてその困苦に共感したいという渇望が生じてくる。

遺品は自ら語ることがない分、観覧者が主体的に思考しながら観察しない限り、共感への渇望を満たすことは無い。各々の遺品が出土した壕で住民はどのように生活し、いかにして地上戦の犠牲になったか、などといった地上戦の実相を汲み取るためには、「なぜこのようなものが出土するのか?」などと、遺品の前で自問することが不可欠だ。例えばタンスの部品を前にしたとき、「なぜ壕にタンスがあったのか?」「なぜ小さな部品しか出ないのか?」などと問いかけることによってこそ、沖縄住民にとって壕は内地の防空壕のような一時的な避難場所ではなく長期の生活を見込んだ場所だったこと、その壕はタンスを粉砕するほどの爆風を浴びたこと、などの地上戦の実相を推察することが出来る。このような能動的認識行為を通してこそ、私たちは沖縄戦の非人道性を多少なりとも追体験することが可能なのである。こうして遺品は地上戦の実相を永遠に、かつ鮮烈に継承させる効果を発揮することが出来る。

加えて、語り部の方々が全国を講演行脚することはほぼ不可能だが、遺品は全国で展示し直接見て貰うことが出来るため、沖縄戦の惨禍を沖縄・内地間の地理的隔絶を乗り越えて伝えることが可能である。遺品展で寄せられる感想で最も多いのは、「遺品を前にし、時に触れて初めて、体験談を本で読んだのとは違うリアリティをもって沖縄戦の実相を感じることが出来た」というものだ。修学旅行で訪沖する中学生の事前学習で遺品を見せたときも、「沖縄のリゾート地としての面しか見てこなかった自分を反省した」「現代まで続く沖縄戦の爪痕に、自分がどのような責任を持てるか考えたい」といった反応があった。このように遺品は、戦争体験談とは違った方法で地上戦の記憶を継承するための新たな方途になりうる。

その一方、戦争遺品を収容し保存することは、県民から広く理解されてきたわけではない。民間人が日本軍による壕追い出しを受けたことにより、収容された遺品の中で民間人のものは数少なく、むしろ大半は民間人を抑圧した日本兵の持ち物である。従って、そのような遺品を収容・保存することにより、沖縄の人々は戦時中の内地の暴力という、廃忘したい記憶を想起させられるのだ。実際、国吉氏は壕追い出しによって親戚5人を亡くしたという地域住民から、「自分の親戚を殺戮した奴らを弔おうとするのか」と収容行為を非難されたことがあったと教えてくれた。

遺品を用いた記憶継承は絶対善ではなく、かえって住民の古傷をなめる営為でもある。展示会を繰り返す中で、内地人たる私が遺品を展示し続けることで、沖縄を余計に苦しめているのではないかという罪悪感は一層強まってきた。沖縄戦の記憶を継承してもしなくても、沖縄に苦悶を強い続けざるを得ないというパラドックス自体が、内地が沖縄に加えた抑圧の不条理さを象徴している。

ただ、遺品を通して沖縄戦の内実、特に内地が沖縄戦の被害を助長した過程を学ぶことにより、内地人は自らが抱くマイノリティへの軽侮を反省し、同じ人間として彼らの苦悶に共感し贖罪したくなるというのも事実ではないだろうか。その可能性を信じ、今後ますます謙虚な姿勢で、決して自分の活動を最善と思わず、沖縄への貢献に邁進したい。

Source: ハフィントンポスト