老舗出版社からサブカル! 『03』がベルリンの壁崩壊とともに船出【創刊号ブログ#9】

「03」創刊号の表紙イメージ

「03」と聞いてピン!と来る方は、かなりの都市生活中毒者だ。それが転じて、雑誌のタイトルだったと思い出す方は、出版業界の者でなければ、よほどの雑誌マニアに違いない。

「03」はもちろん、東京の市外局番。その名を冠した雑誌が、短い期間だがかつて新潮社から発行されていた。

『TRANS-CULTURE MAGAZINE 03 TOKYO Calling』と題された本誌は1989年12月号創刊。編集・発行人は吉武力生(ヨシタケ・リキオ)。同社にしてはデザイン性にも優れたサブカルチャー・マガジンだった。アートディレクターは、駿東宏(シュントウ・ヒロシ)。1896年創業の老舗出版社として、サブカルを扱ったのは、本誌が最初で最後ではなかろうか。

 新潮社はむしろ、ハイカルチャー側に立つ文化の担い手であり、その中からマイノリティの声であるサブカル・マガジンが産声を上げるなど、出版界でも驚きを持って迎えられた。もっとも日本においてサブカルは、むしろ大衆文化に迎合したポップカルチャーの性格が強いゆえ、その棲み分けは曖昧だ。

 いや、創刊号の話だ。市外局番「03」が東京の象徴であるように、各号ごとに東京に類する世界都市のサブカルを切り取り読者に届ける…それが創刊当初のコンセプトだったろう。

 創刊号はニューヨーク特集。表紙はスパイク・リー。撮影はグレン・エドワーズ。今の若者はスパイク・リーを知っているのだろうか。

「スパイク・リー=サブカル」の図式は理解できる。いや、むしろ21世紀の今になって、さらにサブカル度は上昇している。なぜなら、トランプ大統領が示して見せているように黒人が依然、アメリカ社会においてマイノリティであり、彼が描き出す映画のモデルはエクゼクティブとは対照的な少数派庶民だからだ。

 時に彼の監督作品のセリフを100%理解できる日本人はどれほどいるのだろうか。ニューヨーク在住時代、彼の映画を観た後、「半分もわからなかった」とネイティブ・ニューヨーカーの短編小説家にこぼしたところ、「十分じゃないの。私は30%しか理解できなかった」と笑われたものだ。

 創刊号ではニューヨークの、特にクラブシーンに焦点を当てた。クラブについて、いとうせいこう、高城剛、高木完、山田詠美が語っている。当時の『新潮』読者には十二分にサブカルだっただろう。

 表2は資生堂の男性向け薬用スカルプトニック「ゼファ」の見開き広告。私はこれを勝手に異業種合同プロジェクトの一貫と考えている。同じ89年にカワサキからZEPHYRというイカしたオートバイが販売となっていた。4ページはトヨタ・カローナ・エクシブの広告。広告にサブカル色は皆無。

 対面の5ページは目次。「ニューヨークに未来はあるか 世紀末都市のカルチャーマップ」とある。本誌が創刊された頃、世界は大きな波に飲まれた。89年11月にはベルリンを東西に隔てていた壁が崩壊。地球を真っ二つに割っていた冷戦は終わり、同時多国間関係が始まろうとしていた。

 そんな時代の津波が世界を覆った折、クラブシーンだけを切り取ってしまったサブカル・マガジンは運が悪かったとも言えるだろう。もちろん、スパイク・リーのインタビューはそれだけで十二分に興味深く、創刊号の価値があった。これが手元に残り、読み返すことができるだけで僥倖というもの。ただし、せっかくの絶好機だけに、世界の潮流にまで言及できたら、さらなる高みを望めたはずだ。もちろん、締め切りに間に合ったのなら…だが。もっとも残念に思ったのは、編集側だったに違いない。

 中綴じセンターには「サントリー山崎」の見開き広告。「なにも足さない。なにも引かない。」のキャッチが印象的だった。今ではすっかり入手困難になってしまったジャパニーズ・ウイスキー山崎もまだ7500円。新入社員でも一本手に入れるに苦労することはなかった。しかし、やはりサブカルではない。

 後半には、スパイクの実弟サンキ・リーも共石タイアップのページでピックアップされている。以降、音楽、映画、ビデオ、演劇などにスポットを浴びせたWHO’S WHOが並ぶ。

 さすが新潮社…と感心するのは、やはり執筆陣。秋元康、中島みゆき、氷室冴子、赤川次郎、ピート・ハミル、椎名誠、野田秀樹…などなど。中島みゆきの小説には、ちょっと驚いた。本誌では「バードランド サーカス」というタイトルだが91年10月に単行本化された際は『この空を飛べたら』へと変身。中島みゆき研究家の間では、本作の加筆に中島みゆきの言語感覚が見て取れる希少資料でもあるらしい。

 私が個人的に愉しみにしていたのは、野田の「この人をほめよ」。毎回、いろんな人、テーマを取り上げては褒めるのだが、そこは野田節が炸裂。褒めているのか、けなしているのか、おちょくっているのか…そんな妙が、雑誌の最終ページを飾っており、安心感を覚えた。このエッセイも後に単行本化。手に入れて読み直したものだ。

 表3は、日本債券信用銀行の見開き。いやあ、サブカル…なわけはない。表4は日産の「超新感覚スカイライン」。8代目R32は、セフィーロなどとプラットフォームを共有していた。ゴーンさん、「お元気ですかぁ?」

「ゼロサン」はその後、創刊2号1990年1月号で中国返還前の香港、2月号はロンドン、3月号でパリ。4月号でついに激変したベルリンを取り上げた。5月号が京都、6月号はアジアの南の島、7月号では天安門事件から1年後の北京に焦点を。現在の中国では発禁ものだろう。8月号はロサンゼルス、9月号はミラノ、10月号はモスクワ、11月号は「テレビ」、創刊一周年12月号で東京に戻った。こうしてなぞっただけで、世界の混迷は20世紀も21世紀もまったく変わり映えないようだ。

 残念なことに、本誌はさらにこの1年後には休刊。業界では、広告を取るのが難しかったため…というのが休刊の理由と囁かれた。確かにこうして創刊号を読み返すと、サブカルな誌面と東証一部上場的広告のミスマッチは手に取るようにわかる。当時、副編集長を務めた小崎哲哉と現在は親交があり、ハフポスに掲載した池澤夏樹のトークショーも彼の手引きによるところ。実際、本誌の内情について訊ねてから、この記事を起こすべきだったか…。

 休刊までわずか24冊。担当者は悔しかったのでは…と思う。読んでいて、これほど愉しい雑誌は、中々現れないだろう。いや、すでに出版が斜陽産業になった今、もう現れないかもしれない。

『週刊新潮』創刊号の回で、私が新潮社を第一志望としていたのは、「この雑誌が理由だった」としていたが実際、本誌が創刊されたのは、就職活動などとっくに終わった後ではないか。私はいったい何を指針に新潮社を志望していたのだろう。古い記憶と人の思い込みとは恐ろしい。

 次回は、ハフポス女性読者に向け『オリーブ』を取り上げたい。

Source: ハフィントンポスト